NHKのHPに姫路周辺の地図があったので解説しますね。
地図だけあっても、わからないでしょうから。
まず、姫路城。これは今は白鷺城とも呼ばれる名城ですが、そもそもこの城は後醍醐天皇が挙兵した時に呼応した赤松則村が縄張りしたのが始まりと言われています。
その後、赤松氏の一族の小寺氏の一族が守りますが、嘉吉の乱の時に、山名宗全によって本家の赤松氏とともに落城してしまいます。
が、応仁の乱の時に、子孫の赤松政則が播磨の国を山名氏から奪還し、小寺氏が城代となり、小寺氏が御着城に移ったあと、小寺氏の家老の黒田氏の居城となります。
その後、姫路城は中国攻めの総大将 木下藤吉郎秀吉の居城となり、大規模な築城工事と城下町整備します。
関ヶ原の戦いの後、池田輝政は姫路城主となり、8年かけて姫路城を大改修し、現在に至っています。
さて、御着城ですが、姫路の城代だった小寺政隆が隠居城として築城したのではないかと思われます。
しかし、浦上村宗に攻められて御着城は落城し、小寺政隆も自害します。ただ、1年後には赤松氏側が持ち直して、御着城を奪還します。
その後、小寺氏は播磨3大城郭と言われるくらいに御着城を整備したのですが、織田信長に反逆したため、秀吉に攻められて落城し、廃城になっています。
左側にある龍野城は、軍師官兵衛で悪役として登場する赤松政秀の父親の赤松村秀が築城しました。彼の出自は2説ありますが、播磨の名家赤松氏に連なる家柄と思われます。
赤松政秀ですが、一時は置塩城の赤松本家をしのぐほどの勢いがありましたが、姫路に侵攻した時に黒田官兵衛に敗れたのを機に弱体化していきます。龍野赤松氏は政秀の孫の代まで続きますが、秀吉により開城させられます。
その後、龍野城は頻繁に主を変えるのですが、寛文12年から脇坂氏が城主となり明治まで続きます。
室津城(室山城)は赤松本家の筆頭家老だった浦上政宗の居城でした。浦上政宗は弟と対立し、頼みとした尼子晴久も亡くなり、勢力を大きく後退させます。
そこで、姫路の黒田職隆の娘を自分の二男の清宗と縁組させるのですが、その婚礼の日に、龍野の赤松政秀の奇襲を受け、浦上政宗父子と黒田職隆の娘は討ち死にします。
ちなみに、この無法な奇襲攻撃が赤松政秀没落のきっかけであり、黒田家が龍野赤松氏と激しく対立する原因でもありました。
志方城は姫路の東方、今の加古川にあった城で、黒田官兵衛の正室の実家の櫛橋氏の居城でした。
志方城も小寺氏とともに織田家に反旗を翻したために攻撃され落城しますが、櫛橋則伊は黒田官兵衛の口添えで許され、秀吉の家臣になっています。
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